Voice 024. ユーザーとして思うこと、願うこと
水谷みつる
誰かが困り果てて、これは心の問題かもしれないと思い、どこかに辿り着いた時、それがどこのどのようなところであっても、安全で安心できる場であって欲しい。そして、その人に必要な支援がどのようなものであっても、その必要な支援を受けられるよう、制度的に保証する仕組みが存在して欲しい。
今回、VOICEを書く機会をいただいて、長年、ユーザーをしてきた立場から心理職、というより、もっと広くメンタルヘルスの領域で働くすべてのプロフェッショナルに望むことは何かと考えた時、真っ先に思い浮かんだのはそのようなことだった。
私自身もそうだったが、初めて精神科なり心理療法機関なりを訪ねる時、クライアントはこれからかかわるかもしれない人たちのあいだにどんな職種の人が存在するのか、よくわかっているわけではない。たとえインターネットで調べて、精神科医やカウンセラー、ソーシャルワーカーといった職種が存在することを知っていても、それぞれがどんな役割を担っているのか、誰にどんなことを相談するのが適切なのか、きちんと把握できているとは限らない。それどころか、そもそもメンタルヘルスの領域で働く人に何を期待できて、何を期待できないかさえ理解していない場合もある(というか、むしろ理解していない人のほうがほとんどではないだろうか。少なくとも私自身はよくわかっておらず、あらゆる問題を魔法のように解決してもらいたいと願っていた)。加えて、多くの場合、さまざまな福祉制度も含め、どのような制度を利用できるのか知識もない。
しかも、追い詰められ、困り果てて、これまでかかわりのなかった精神科や心理療法機関の門を叩こうとしているくらいなのだから、頭のなかがひどく混乱していたり、不安でいっぱいだったり、起き上がって活動することもしんどかったりする。そのような状態のなかで、自分でこの問題はどこのどういう人に相談するのが適当なのかを適切に判断し、適切に行動することは非常に難しい(というのはむろん控えめな言い方で、本音としてはそんなの無理と思う)。
ところがいまは、よほど支援者あるいは支援機関に恵まれない限り、個々の当事者が自分でどのような支援の選択肢があるのかを一から調べ、見つけ、比較し、選び、組み合わせ、使い分けなければならないという、当事者にとってとても負担の大きい状況にある。しかもその困難なタスクを、危ない専門家から身を守りつつ、時には急いで離れるという決断も下しながら、遂行しなければならない。
危ない専門家などという穏やかでない言い方をどうか許していただけたらと思う。15年近くユーザーとしてメンタルヘルスの世界にかかわり、精神科医も心理職もそれぞれ片手を遥かに超える人数にお世話になってきたが、振り返って考えれば、早く離れるべきだった問題のある治療者が残念ながら何人もいた。もちろん、一方で大きな助けになってくれた治療者も数多くいたし、その人たちから受けた恩恵は計り知れない。だからメンタルヘルスの領域で働くプロフェッショナルをまとめて否定するつもりはまったくない。でも、何重もの意味で見通しの効かないわけのわからない世界のなかで、探し、見つけ、選び、試し、見切りをつけ、離れ、探し……を繰り返すのは、本当に大変なしんどいことだった。
公認心理師の創設の問題とはかけはなれたことばかり書いていると思われるかもしれない。正直、公認心理師の制度ができることで何がどう変わるか、私にはっきりわかっているわけではない。でも、ここまで書いてきたような、見通しの効かない世界で当事者が自らけもの道を開いていかなければならないような状況が、公認心理師の創設によって少しでも改善されるならそれを歓迎したいし、期待して待ちたいと思っている。
とくにいま、当事者から見た心理職をめぐる最大の謎は、保険診療のなかでどうすれば心理職に出会えるのかという問題で、国家資格化されることでその不透明さが改善されるのであれば、当事者にとってこれほどありがたいことはないと思う。
現在、病院やクリニックなどで心理職による心理療法を受けようとすると、保険適応になる場合と自費になる場合があるが、いったいどうしてそのような違いが生じるのか、果たしてどこに行けば保険適応を受けられるのか、当事者にはどうにもよくわからない。私自身は、かつて別々の医療機関で心理職によるカウンセリングと、精神科医と心理職の二人がセラピストとコ・セラピストを務めるグループ療法を保険適応で受けたことがあるが、どちらもいろいろと情報を探すなかで、たまたま、本当にたまたま見つけたものだった。しかし、言うまでもなく、たまたま幸運であれば保険診療の範囲内で心理職に辿り着ける、というのでは困るし、制度として不備があり過ぎる。
心理職が国家資格化することで、制度のなかに的確に位置づけられ、当事者が心理職に出会う道筋が、たまたま幸運にもそういう医療機関だったからとか、たまたま幸運にも自費診療の高額な費用(保険診療機関であっても、それ以外の心理療法機関であっても)を負担できるだけの経済的余裕があったからとかではなく、必要性に応じたものになるなら、それは本当に意義あることだし、大きな助けになると思う。
でも一方で、そのこと自体はゴールではなく、途中経過の一歩に過ぎない(もちろん大きな一歩前進だけれども)とも思う。アクセスが保障されるだけでは充分ではなく、そこでどのような支援を受けられるかが何より重要なのは言うまでもないし、資格の成立と制度への組み入れが、必ずしもその仕事の質を担保しないのは、残念ながらすでに精神科医の例で証明済みだからである。
この15年弱でおそらく20人ほどの専門家にクライアントとして出会ってきた。そのうち、旅先で薬を忘れ、精神科に飛び込んだとか、パニックで一晩だけ入院したとか、さまざまな理由でたった一度、会っただけの人が数名だから、ある程度以上に「治療」を受けたのは15人ほどになる。その数の多さには自分でもびっくりする。そのなかには、たった2回で私のほうから慌てて逃げ出した最初の主治医もいる。エゴグラムの結果だけで「性格が悪い」と決めつけた最初のカウンセラーもいる。いつも泣きそうな顔をして、1時間の面接中、消え入りそうな声で2文か3文、言葉を絞り出すのが精一杯だったカウンセラーもいる。とても親身になって話を聞いてくれたが、薬剤の副作用の把握が十分でなかった長くお世話になった主治医もいる。インフォームド・コンセントなど気にも留めずにどんどん薬を減らし(処方箋を見て初めて薬が変更になったことを知る始末だった)、9か月ほどで速やかに薬剤性の症状からの脱出を助けてくれた主治医もいる。グループ療法のなかでコ・セラピストとして全体の進行を見守り、手助けしてくれた心理職も何人かいる。それから、短い文章では書き切れないくらいさまざまな面で助け、支えてくれた専門家たちが何人も何人もいる。
これほど多くの専門家にお世話になることになったのは、もちろんこちら側の要因もあるだろう。何人目かにようやく辿り着いたいまの主治医に「そろそろ困難ケースだって自覚したほうがいいですよ」と言われたくらいだから、私も苦労したが、治療者たちも苦労したに違いない。切れて怒鳴った人たちにもそれなりに理由があったのだろう。そんななか、忍耐強くつき合い続け、その都度、その都度に必要な支援を提供してくれた専門家たちには、どんなに感謝してもし切れない気持ちでいる。
心理であれ医療であれ福祉であれ、対人援助職というのは恐ろしく大変な難しい仕事と思う。志だけでなく、高いレベルの知識や技量を求められ、日々、変化する要求のなかで、よい仕事を継続していくのは並大抵のことではないだろう。本当に頭の下がる思いがする。せめてその多大な労が、制度のなかで正当に位置づけられ、評価され、報われることを、そして一人ひとりのプロフェッショナルが、存分にその仕事を追求できる環境が整うことを、心からの応援の気持ちを込めて願ってやまない。それが引いては、当事者および社会全体の益につながると信じている。
※編集者注:現在、精神科・心療内科等でのカウンセリング(通院精神療法等)は、医師が行った場合のみ保険適応となります。心理職がカウンセリングを行う場合の報酬のあり方には保険点数上の定めはありませんが、各医療機関が付加的なサービスとして行っている場合があります。