Voice 021. 私は臨床心理士に期待している(後編)

松本俊彦

(国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所薬物依存研究部 部長/自殺予防総合対策センター 副センター長

臨床研究をやってほしい

 もう一つ、臨床心理士にお願いしたいのは、もっと精力的に臨床研究をしてほしいということだ。私の周囲にいる心理学科出身者は両極端に分かれている。統計の鬼のようなバリバリの基礎研究を志向する者は完全に臨床から手を引いているし、逆に臨床に従事している者の多くは大学院を出ると研究活動から事実上引退してしまう。

 その結果、心理系の学術論文というと、生徒・学生を対象としてややこしい尺度を用いた、ややこしい統計解析を用いたものばかりとなる。正直いって精神科医としてあまり関心をそそられないし、無理して読んでも日常臨床にはさしたる貢献のない代物だ。

 もちろん、臨床経験をもとに事例研究論文を書く人もいる。しかし、事例研究論文が臨床家のトレーニングとしての意義深いことは理解しているものの、そこから得られる知見は一般化がむずかしいものが多く、臨床への貢献は限定的である。むしろ、そうした事例の経験を量的研究に発展させて、普遍化できる知見としていただきたいところだが、臨床現場にいる心理士のなかでそれを実践できている人はまれにしかいない。

 これは非常にもったいないことだと思う。臨床心理士のなかには、潜在的に研究者としての能力を持ちながらも、いわば「宝の持ち腐れ」状態のまま、能力を眠らせている者が少なくない。

 少なくとも資格を手にした時点では、医者よりも臨床心理士の方が学術的な研究の作法には通じている。というのも、一般に医者は学部時代に研究的なことを経験していないし、卒業論文も書かないからだ。医学部では糞暗記と実習に明け暮れ、卒業試験と国家試験にパスすることに集中する。大学院進学者は別にすれば、一般の臨床医は統計のなんたるかも知らなければ、統計ソフトの扱い方、いや統計ソフトなるものの存在すら知らない。ところが、臨床心理士の場合、学部卒業時に卒業論文を書いているし、大学院では修論を執筆している。

 実は、私の研究事始めは、大学院を出たばかりの臨床心理士の人たちに教えを乞うところから始まった。確かに、大学医局にはいくつかの研究グループがあり、そこに所属すれば先輩医師から研究の手ほどきを受け、学会発表や論文執筆といった学術的な活動を半ば強制的にやらされる。最終的には本人の意欲次第ではあるが、博士号取得をサポートしてもらうことも可能だ。

 しかし私の場合、「薬物依存症」とか「自傷行為」といった、大学医局に研究グループが存在しない領域に関心があり、当然ながら指導をしてくれる先輩もいなかった。だから、自分一人でカルテをひっくり返しては、どうやったら統計的な検定なるものができるのかと悩んでいた。いまさらのように統計の教科書を読んでも数式ばかりが飛び交っていて、外来、数学が苦手な私は2ページほどで討ち死だった。そんなときに統計ソフトの存在を教えてくれ、統計処理の手伝いをしてくれたり、統計のごく基礎的な知識を教えたりしたのは、若い臨床心理士たちであった。それは、文字通り「目から鱗」の体験で、一気に視野が開けた気がした。そして実際、その後、私はこれまでため込んだデータをもとに矢継ぎ早に論文を執筆していった。

 残念なのは、私に統計を教えてくれた恩人である臨床心理士たちは、その後それぞれ立派な臨床家になったものの、学術的な研究はほとんどしなくなったことだ。何度となく論文を書くように励まし、ときには相当に手伝って何とか論文を書かせたこともあったが、少なくとも自発的に研究をすることはなかった。

 いろいろと理由があるだろうが、一番の原因は、医者と一緒に量的研究で論文を書いても、彼らのキャリアパスにはあまりプラスの影響がないということだろう。臨床心理学の教員ポストは、学閥的サークル内のコネクションが重要であり、そのために、若い臨床心理士は、著名な臨床心理士の取り巻きとなったり、そうした人が主催するサロン的研究会に日参したりすることに熱心となる。学会に参加しても自分が何かを発表するよりも、懇親会で名刺を配りまくったりすることに一生懸命だ。かろうじて学術的な活動として評価されるのは、医者と協働した量的な臨床研究ではなく、事例研究論文――失礼ながら私には、「要するに何がいいたいのか」わからない、「紙の無駄遣い」としか思えない論文も少なくない――を、心理臨床学研究あたりに掲載することらしい。

 「もしかしてこれが心理臨床学会のねらいなの?」と勘ぐりたいところだ。私の研究チームには何人かの臨床心理士がいて、研究に対する貢献があれば論文の共著者に名前を加えているが、実はそれほどありがたがってもらえず、共著者になることは研究協力のモティベーションになっていない現状がある。どうやら論文の共著者にリストされることは、彼らのキャリアに大きな貢献しないらしいのだ。というのも、臨床心理士の資格更新ポイントは、共著論文の場合、たとえ自身が筆頭著者であったとしても、著者数で割った点しか加算されないからである。さらに驚くべきことに、英語論文の場合には執筆しても、資格更新のポイントに加算されないというのだ。

 明らかにこれはおかしい。いまどきたった一人の研究者では、臨床に大きな貢献をする知見が得られる研究を行えないのだ。もうそんな時代ではない。自分で研究費を獲得し、多数の臨床家や研究者とチームを組んでやらなければ、意義ある研究などできっこない。そして、臨床心理士には研究者としても優れた能力を持った人が多数存在する。そのような人たちには、研究専門の人になるのではなく、博士号をもった臨床家になってほしいと思う。

 こうした私の見解に反論したい人もいるかもしれない。たとえば、「あなたは臨床心理士に対する要求水準が不当に高すぎないか? あなたは、たとえば精神保健福祉士にも同じ水準を求めているのか? 臨床医の大半だって研究とは無縁だし、学位を持っていない医者だって多いはずだ。このような不当に高い要求水準もまた、臨床心理士に対する一種の差別ではないのか」と。

 決して差別しているつもりはない。私は臨床心理士に期待しているのだ。それができるだけの能力を持った人がいる。公認心理師案の様々な条件に不満があるだろうが、今後、問題点を改善していくにはこの方法しかないとも思っている。欧米で臨床心理士が医者と対等に評価されているのは、彼らの方が研究熱心だからだ。それは、海外の精神医学系学術雑誌に掲載されている論文の筆頭著者の称号を見てみればわかる。「M.D.」は意外に少なく、その多くは心理系の「Ph.D.」だ。それだけではない。医学部の精神科教授の肩書を得ている臨床心理士もめずらしくない。

 状況をどう変えるかは、あなた方、若い臨床心理士の肩にかかっているのだ。


とにかく一刻も早く参戦すべきだ

 大学病院の研修医時代、精神科には臨床心理士が何人か研修に来ていた。いずれも勉強熱心で、最初のうちは、年齢は同じくらいなのに心理学・精神医学の知識が豊富であることに正直かなりビビっていたのを覚えている。なにしろ、こちらはちゃらんぽらんな生活のまま医学部を過ごし、奇跡的に卒業したうえに、勘だけを頼りに医師国家試験を合格したばかりだった。知識も経験もない、ただのシロウトが白衣を着ていたといっても過言ではない。

このような若い臨床心理士たちとは、その後数年間にわたって一緒に勉強会を継続し、定期的に顔をあわせることになった。そのなかで当初のビビり感は次第になくなった。それは単に親しくなり、ざっくばらんな関係になったことだけが原因ではないと思う。というのも、僭越ながら、私の方が彼らをスーパーバイズする機会が多くなったからだ。

 なぜだろうか? 理由ははっきりしている。心理士たちの多くは、なかなか常勤ポストが見つからず、スクールカウンセラーやクリニックの心理検査者として非常勤職で食いつなぎ、不十分な臨床経験しかできないでいた。これに対し、同じ数年のあいだに、こちらは大学病院、そして市中の総合病院精神科や単科精神科病院で、曲がりなりにも「主治医」として多数の患者を担当していたからだ。数が多い分、その臨床は雑であったかもしれない。しかし、一応は主治医という「責任」を担わされ、「訴えられるかもしれない」という緊張感に冷や汗をかき半泣きになり、おのれの知識不足、経験不足を痛感しつつも、ぎりぎりの覚醒度のなかで頭をひねる体験は、確実に人を成長させる。

 腹をくくって数を診る。これがわれわれの臨床力を高めるのだ。同じことを臨床心理士が体験するには、まずは国家資格を手に入れ、正当なポストを手に入れる必要がある。「外人傭兵」ではなく、「正規の兵士」として参戦する必要があるのだ。

 あなた方、臨床心理士の参戦は精神科医療の質を高めるだろう。少なくともいまよりははるかにマシになる。なぜなら、現状では、診療報酬を生み出さない臨床心理士の給料を稼ぎ出すために、私たち精神科医は、「夜眠れてるか? メシを食ったか? 歯を磨いたか? また来週……」というドリフターズ外来をさらに高速回転させて多数の患者をこなし、質の低い医療の提供を余儀なくされているからだ。

 繰り返すが、私はあなた方の参戦を待っている。